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KDP(電子出版)のメモ 急急如律令

Amazon Kindleダイレクト・パブリッシングでの電子出版や電子書籍の作成販売について、文章やイラストの作成や編集方法について書いています。

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今までに出版した電子書籍

Amazon.co.jp: 急急如律令: Kindleストア

 

自動ルビ打ち(青空文庫形式を含む)メモ

青空文庫形式では、
|起稿《きこう》
と打つとルビがうてますが、ものすごくめんどくさいので、自動でルビ打つ方法ないかな~と探しておりました。
http://d.hatena.ne.jp/ma2/20130525/p1
ここで、記事で、使い方が書いてありますが。文章を放り込むとルビを付けて返します。ルビの付ける段階も8段階に切り替えが可能。例えば、小学生や中学生向け、一般向けのように対象を変えることができる。

 


http://furi.herokuapp.com/

このサイトにBCCKS用のルビうち機能があるので、それを青空文庫形式に変換してみよう。
BCCKS用のルビの形式の、 

{変換}(へんかん) を 変換へんかん》 に変換する。

このように、 ”
{”でルビを打つ漢字の始まりを示し、” } ”で漢字の終わり
  ”
(”と” )”の間にルビとなるものを挟むことによってルビが打てる。
つまり青空文庫形式に変換するには、 
{”を“”に、” }(”を””に、” )”を””に置き換えることによって変換ができる。

では実際にやってみる。青空文庫から

柳田国男(著)  山の人生



  山の人生と題する短い研究を、昨年『朝日グラフ』に連載した時には、一番親切だと思った友人の批評が、面白そうだがよく解らぬというのであった。ああして胡麻かすのだろうという類の酷評も、少しはあったように感じられた。もちろん甚だむつかしくして、明晰に書いてみようもないのではあったが、もしまだ出さなかった材料を出し、簡略に失した説明を少し詳しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この書の刊行にあせった真実の動機であった。ところが書いているうちに、自分にも一層解釈しにくくなった点が現れたと同時に、二十年も前から考えていた問題なるにもかかわらず、今になって突然として心づくようなことも大分あった。従ってこの一書の、自分の書斎生活の記念としての価値は少し加わったが、いよいよ以て前に作った荒筋の間々へ、切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった。しかしこれを書き改めるがために費すべき時間は、もうここにはないのである。そのうえに資料の新供給を外部の同情者に仰ぐためにも、一応はこの形をもって世に問う必要があるのである。なるほどこの本には賛否の意見を学者に求めるだけの、纏まった結論というものはないかも知れぬが、それでも自分たち一派の主張として、新しい知識を求めることばかりが学問であることと、これを求める手段には、これまで一向に人に顧みられなかった方面が多々であって、それに今われわれが手を着けているのだということと、天然の現象の最も大切なる一部分、すなわち同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。学問をもって文雅の士の修養とし、ないしは職業捜索の方便と解して怪まなかった人々は、このいわゆる小題大做に対して果していかなる態度を取るであろうか。それも問題でありまた現象である故に、最も精細に観測してみようと思う。


”全漢字にふりが”なというのを使って出力した


{山}(やま)の{人生}(じんせい)と{題}(だい)する{短}(みじか)い{研究}(けんきゅう)を、{昨年}(さくねん)『{朝日}(あさひ)グラフ』に{連載}(れんさい)した{時}(とき)には、{一番}(いちばん){親切}(しんせつ)だと{思}(おも)った{友人}(ゆうじん)の{批評}(ひひょう)が、{面白}(おもしろ)そうだがよく{解}(わか)らぬというのであった。ああして{胡麻}(ごま)かすのだろうという{類}(るい)の{酷評}(こくひょう)も、{少}(すこ)しはあったように{感}(かん)じられた。もちろん{甚}(はなは)だむつかしくして、{明晰}(めいせき)に{書}(か)いてみようもないのではあったが、もしまだ{出}(だ)さなかった{材料}(ざいりょう)を{出}(だ)し、{簡略}(かんりゃく)に{失}(しっ)した{説明}(せつめい)を{少}(すこ)し{詳}(くわ)しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この{書}(しょ)の{刊行}(かんこう)にあせった{真実}(しんじつ)の{動機}(どうき)であった。ところが{書}(か)いているうちに、{自分}(じぶん)にも{一層}(いっそう){解釈}(かいしゃく)しにくくなった{点}(てん)が{現}(あらわ)れたと{同時}(どうじ)に、二十{年}(ねん)も{前}(まえ)から{考}(かんが)えていた{問題}(もんだい)なるにもかかわらず、{今}(いま)になって{突然}(とつぜん)として{心}(こころ)づくようなことも{大分}(だいぶ)あった。{従}(したが)ってこの{一書}(いっしょ)の、{自分}(じぶん)の{書斎}(しょさい){生活}(せいかつ)の{記念}(きねん)としての{価値}(かち)は{少}(すこ)し{加}(くわ)わったが、いよいよ{以}(もっ)て{前}(まえ)に{作}(つく)った{荒筋}(あらすじ)の{間々}(まま)へ、{切}(き)れ{切}(ぎ)れの{追加}(ついか)をする{方法}(ほうほう)の、{不適当}(ふてきとう)であることが{顕著}(けんちょ)になった。しかしこれを{書}(か)き{改}(あらた)めるがために{費}(ついや)すべき{時間}(じかん)は、もうここにはないのである。そのうえに{資料}(しりょう)の{新}(しん){供給}(きょうきゅう)を{外部}(がいぶ)の{同情}(どうじょう){者}(しゃ)に{仰}(あお)ぐためにも、{一応}(いちおう)はこの{形}(かたち)をもって{世}(よ)に{問}(と)う{必要}(ひつよう)があるのである。なるほどこの{本}(ほん)には{賛否}(さんぴ)の{意見}(いけん)を{学者}(がくしゃ)に{求}(もと)めるだけの、{纏}(まと)まった{結論}(けつろん)というものはないかも{知}(し)れぬが、それでも{自分}(じぶん)たち{一派}(いっぱ)の{主張}(しゅちょう)として、{新}(あたら)しい{知識}(ちしき)を{求}(もと)めることばかりが{学問}(がくもん)であることと、これを{求}(もと)める{手段}(しゅだん)には、これまで{一向}(ひたすら)に{人}(ひと)に{顧}(かえり)みられなかった{方面}(ほうめん)が{多々}(たた)であって、それに{今}(いま)われわれが{手}(て)を{着}(つ)けているのだということと、{天然}(てんねん)の{現象}(げんしょう)の{最}(もっと)も{大切}(たいせつ)なる{一部分}(いちぶぶん)、すなわち{同胞}(どうほう){国民}(こくみん)の{多数者}(たすうしゃ)の{数}(すう){千年}(せんねん){間}(あいだ)の{行為}(こうい)と{感想}(かんそう)と{経験}(けいけん)とが、かつて{観察}(かんさつ)し{記録}(きろく)しまた{攻究}(こうきゅう)せられなかったのは{不当}(ふとう)だということと、{今後}(こんご)の{社会}(しゃかい){改造}(かいぞう)の{準備}(じゅんび)にはそれが{痛切}(つうせつ)に{必要}(ひつよう)であるということとは、{少}(すく)なくとも{実地}(じっち)をもってこれを{例証}(れいしょう)しているつもりである。{学問}(がくもん)をもって{文雅}(ぶんが)の{士}(し)の{修養}(しゅうよう)とし、ないしは{職業}(しょくぎょう){捜索}(そうさく)の{方便}(ほうべん)と{解}(ほぐ)して{怪}(かい)まなかった{人々}(ひとびと)は、このいわゆる{小}(しょう){題}(だい){大做}(おおさく)に{対}(たい)して{果}(はて)していかなる{態度}(たいど)を{取}(と)るであろうか。それも{問題}(もんだい)でありまた{現象}(げんしょう)である{故}(ゆえ)に、{最}(もっと)も{精細}(せいさい)に{観測}(かんそく)してみようと{思}(おも)う。


それを置き換え

 |山《やま》の|人生《じんせい》と|題《だい》する|短《みじか》い|研究《けんきゅう》を、|昨年《さくねん》『|朝日《あさひ》グラフ』に|連載《れんさい》した|時《とき》には、|一番《いちばん》|親切《しんせつ》だと|思《おも》った|友人《ゆうじん》の|批評《ひひょう》が、|面白《おもしろ》そうだがよく|解《わか》らぬというのであった。ああして|胡麻《ごま》かすのだろうという|類《るい》の|酷評《こくひょう》も、|少《すこ》しはあったように|感《かん》じられた。もちろん|甚《はなは》だむつかしくして、|明晰《めいせき》に|書《か》いてみようもないのではあったが、もしまだ|出《だ》さなかった|材料《ざいりょう》を|出《だ》し、|簡略《かんりゃく》に|失《しっ》した|説明《せつめい》を|少《すこ》し|詳《くわ》しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この|書《しょ》の|刊行《かんこう》にあせった|真実《しんじつ》の|動機《どうき》であった。ところが|書《か》いているうちに、|自分《じぶん》にも|一層《いっそう》|解釈《かいしゃく》しにくくなった|点《てん》が|現《あらわ》れたと|同時《どうじ》に、二十|年《ねん》も|前《まえ》から|考《かんが》えていた|問題《もんだい》なるにもかかわらず、|今《いま》になって|突然《とつぜん》として|心《こころ》づくようなことも|大分《だいぶ》あった。|従《したが》ってこの|一書《いっしょ》の、|自分《じぶん》の|書斎《しょさい》|生活《せいかつ》の|記念《きねん》としての|価値《かち》は|少《すこ》し|加《くわ》わったが、いよいよ|以《もっ》て|前《まえ》に|作《つく》った|荒筋《あらすじ》の|間々《まま》へ、|切《き》れ|切《ぎ》れの|追加《ついか》をする|方法《ほうほう》の、|不適当《ふてきとう》であることが|顕著《けんちょ》になった。しかしこれを|書《か》き|改《あらた》めるがために|費《ついや》すべき|時間《じかん》は、もうここにはないのである。そのうえに|資料《しりょう》の|新《しん》|供給《きょうきゅう》を|外部《がいぶ》の|同情《どうじょう》|者《しゃ》に|仰《あお》ぐためにも、|一応《いちおう》はこの|形《かたち》をもって|世《よ》に|問《と》う|必要《ひつよう》があるのである。なるほどこの|本《ほん》には|賛否《さんぴ》の|意見《いけん》を|学者《がくしゃ》に|求《もと》めるだけの、|纏《まと》まった|結論《けつろん》というものはないかも|知《し》れぬが、それでも|自分《じぶん》たち|一派《いっぱ》の|主張《しゅちょう》として、|新《あたら》しい|知識《ちしき》を|求《もと》めることばかりが|学問《がくもん》であることと、これを|求《もと》める|手段《しゅだん》には、これまで|一向《ひたすら》に|人《ひと》に|顧《かえり》みられなかった|方面《ほうめん》が|多々《たた》であって、それに|今《いま》われわれが|手《て》を|着《つ》けているのだということと、|天然《てんねん》の|現象《げんしょう》の|最《もっと》も|大切《たいせつ》なる|一部分《いちぶぶん》、すなわち|同胞《どうほう》|国民《こくみん》の|多数者《たすうしゃ》の|数《すう》|千年《せんねん》|間《あいだ》の|行為《こうい》と|感想《かんそう》と|経験《けいけん》とが、かつて|観察《かんさつ》し|記録《きろく》しまた|攻究《こうきゅう》せられなかったのは|不当《ふとう》だということと、|今後《こんご》の|社会《しゃかい》|改造《かいぞう》の|準備《じゅんび》にはそれが|痛切《つうせつ》に|必要《ひつよう》であるということとは、|少《すく》なくとも|実地《じっち》をもってこれを|例証《れいしょう》しているつもりである。|学問《がくもん》をもって|文雅《ぶんが》の|士《し》の|修養《しゅうよう》とし、ないしは|職業《しょくぎょう》|捜索《そうさく》の|方便《ほうべん》と|解《ほぐ》して|怪《かい》まなかった|人々《ひとびと》は、このいわゆる|小《しょう》|題《だい》|大做《おおさく》に|対《たい》して|果《はて》していかなる|態度《たいど》を|取《と》るであろうか。それも|問題《もんだい》でありまた|現象《げんしょう》である|故《ゆえ》に、|最《もっと》も|精細《せいさい》に|観測《かんそく》してみようと|思《おも》う。


さて成功しているだろうか。 kindleで読み込めるように変換してみた。

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ややくどい感じがするけど成功している模様。 

青空文庫キンドルに変換する方法は下記の記事に書いてあります。

99nyorituryo.hatenablog.com